歩み・沿革

日本脳神経外科学会のあゆみ

佐野圭司

戦前わが国でも欧米諸国と同様に脳神経外科手術は一般外科の教授たちにより散発的に行われてきた。

戦後、脳神経外科の学会を作ろうという機運が熟し、1948年(昭和23年)5月に日本外科学会が新潟大学教授の中田瑞穂(1893-1975)を会長として新潟で行われた機会に、名古屋大学の斉藤眞(1889-1950)、上記の中田瑞穂、京都大学の荒木千里(1901-1976)、東京大学の清水健太郎(1903-1987)ら、この分野に興味と情熱を持った教授たちと医局員として渡辺茂夫、古沢清明(名古屋大学)、佐野圭司(東京大学)らが5月3日に集まり、日本脳・神経外科研究会を結成し、翌5月4日に正式に第一回総会が新潟大学の講堂で開かれた。
このとき推載された会長は斉藤眞であった。この第一回の演題数は26題であった。
脳と神経の間に「・」が入っているのは、脳で中枢神経(脳、脊髄)を代表させる意味をこめていた。 この「・」は、1965年6月医療法第70条に診療科名として加えられたときに、法律用語では「・」を入れられないという理由で除かれた。
この時、この法案の提案理由の中で脳神経外科は「脳、脊髄及び末梢神経に関する外科」と定義された。

この日本脳・神経外科研究会は1952年再び新潟で中田瑞穂を会長として開かれたときに、日本脳・神経外科学会と改称され、やがて上記法律が施行されてから、すなわち1965年10月の第24回からは日本脳神経外科学会(The Japan Neurosurgical Society)となった。

文部省が正式に認めた診療科として、1951年(昭和26年)6月1日、東京大学病院に初めて脳神経外科が置かれ、さらに同年9月、この診療科に相当する講座として1893年(明治26年)以来空講座となっていた外科学第3講座をもってし、両者とも外科学第1講座の清水健太郎教授が兼任することとなった。
この外科学第3講座は、明治26年(1893年)我が国に初めて講座制が施かれたとき、まだ在職していたJulius Scriba(外国人であるために正式の教授にならなかった)のために作られたもので、その後長く空講座となっていた。外科学第3講座は、1962年(昭和37年)12月に定員がついて佐野圭司が教授となり、同時に脳神経外科診療科長に任ぜられた。さらに翌1963年(昭和38年)4月1日から、外科学第3講座は脳神経外科学講座と改称され、講座、診療科とも脳神経外科として正式に文部省に認められた。
1951年に診療科ができてからここまでに、11年あまりを要したことになる。

一方、新潟大学では、中田瑞穂教授の第1外科のなかに1953年(昭和28年)第2外科講座ができ、中田白身がその教授となり、この講座が脳神経外科にあたるものとなった。しかし実質は2講座1教室の外科学教室であった。1957年(昭和32年)8月に、植木幸明がこの第2外科の教授となり、やがて1962年(昭和37年〉脳外科研究施設 – 脳研究所の前身 – のなかに脳神経外科部門ができ、翌年、植木は第2外科からこちらに移り、名実ともに脳神経外科学教室となった。
やがて、1963年(昭和38年)慶應義塾大学(工藤達之教授〉に、さらに京都大学(半田 肇教授)、その他の大学にも脳神経外科学講座や部門が作られるようになった。上記のように1965年医療法第70条に脳神経外科が診療科名として加えられてからは、一般病院にも診療科として脳神経外科が置かれるようになり、ついには全大学医学部や大病院に脳神経外科が設けられ、脳神経外科学会の会員は急速に増大した。

会員の質の向上をはかるために、1966年(昭和41年)第25回日本脳神経外科学会(工藤達之会長)で、学会として欧米と同じように専門医制度あるいは認定医制度を発足させることが可決され、学会第2日(10月14日)、当時の専任脳神経外科教授14名(橋場輝芳、植木幸明、佐野圭司、工藤達之、半田 肇、都留美都雄、森安信雄、近藤駿四郎、三輪哲郎、景山直樹、北村勝俊、西本 詮、山本信二郎、深井博志)により第1回認定医制度準備委員会(佐野圭司委員長)が持たれた。まずこの14名を認定医として認定し、同時に認定医制度に関する規則、細則案を作成した。第1回認定審査会は翌1967年8月31日に開催、外科学教授であったが、わが国での脳神経外科のパイオニアであり、日本脳神経外科学会会長を歴任した、中田瑞穂、荒木千里、清水健太郎、桂 重次、小沢凱夫、竹林 弘、浅野芳登、久留 勝、の8名には別格として認定証を贈呈することとし、上記委員と合わせて第22号までの認定医が誕生した。また脳神経外科学会評議員の中から認定委員会委員が推薦した者、訓練場所の長、および訓練場所の長から推薦された者について選考し、計186名を認定した。1968年の過渡期を経て1969年以降は申請者全員に筆記および回答試験を課することとし、現在に及んでいる。

この認定医は後に専門医と名称を変えた。やがてこの専門医の数は数千名に及んだので、専門医の生涯教育を日的とした日本脳神経外科コングレス(The Japanese Congress of Neurological Surgeons)が設立され、その第1回が1981年2月に開催された。

世界に目を転ずると1931年からInternational Neurological Congressなるものがほぼ4年に1回のペースで開かれていたが、脳神経外科が第2次大戦後各国に発達してくると脳神経外科医たちは自分たちの国際学会を持ちたいと願うようになり、1955年9月4日~5日にブリュッセルで会合し、World Federation of Neurosurgical Societies(WFNS)を結成し、英国のSir Geoffrey Jeffersonを第1回のPresidentに戴き、1957年7月に第1回のInternational Congress of Neurological Surgery(ICNS)をブリュッセルで開いた。日本脳神経外科学会もこのmember societyに加えられた。

わが国の脳神経外科の水準は、国際的にも高い評価を受けるようになり、1969年~1973年、World Federation of Neurosurgical Societies(初代Sir Geoffrey Jefferson)、2代目Paul C Bucy、3代目Eduard Busch、4代目AE Walkerが会長)の5代目会長を佐野圭司がつとめ、当時の規約により任期4年の最後に当たる1973年10月東京でSecretaryの石井昌三とともに、第5回International Congerss of Neurological Surgeryを開催した。
この国際学会の開催以後、我が国の脳神経外科医の研究発表が外国雑誌に掲載される頻度が大幅に増加したのは事実である。
この国際学会に関して言えば、第6回(1973-1977)からはWFNS会長とICNS会長に分けることになった。 それぞれの任務が忙しく、兼任が難しくなったのが主な理由である。
第13回(2001-2005)のWFNSの会長は米国のEdward Laws、2005年のICNSの開催地はモロッコのマラケシュと決められている。 ちなみに第14回(2005-2009)のWFNSの会長はベルギーのJacques Brotchi、2009年のICNSの開催地は米国のボストンと予定されている。

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